2010年8月21日土曜日

北前船と利根川航路


本日はたすけさんのホームページに紹介されている「利根運河交流館」と「うんがいい」へ出かけました。日本一長い利根運河沿いは景観が良くサイクリングロードも整備されており、サイクリングやジョギング、散歩などで親しまれています。
利根運河を経由し江戸へ物資を運んでいたことは以前より知っていましたがどうして利根川を遡上するのか疑問に思っていました。
その答えは「利根運河交流館」で知ることになりました。銚子沖の海域は親潮と黒潮がぶつかる難所であるため利根川を遡上していたのです。現在でいう茨城県知事も利根運河の工事に賛成していたことも初めて知りました。これは茨城の物産を江戸へ送りやすくなる為です。
タイトルには北前船が入っていますが「利根運河交流館」にあった航路には江戸や東海地方からの航路は描かれておらず(そのまま東京湾に入れる)松前からの線が描かれていました。そこで北前船を思い出しました。
「北前船」というと江戸中期より明治中期にかけて、船と商品を自己資本で仕入れ利鞘を稼ぐ海の総合商社として知られています。「北前船」の船主は主に福井、石川、富山がほとんどです。
「北前船」の名称には諸説ありますが私は上方からみて北前を通ってやってくる船を北前船と呼ぶようになったという説が有力だと思います。



北前船の航路(北前を経て上方にやってくる事が条件)
 (春)瀬戸内海(大阪)>>北前(山陰沖)>>北(北陸沖)>>蝦夷
 (夏)蝦夷>>北(北陸沖)>>北前(山陰沖)>>瀬戸内海(大阪)
  「北前」とは山陰地方沖を指している。

「北前船」は北山陰地方沖を経て瀬戸内海を航路とする船を指す。

よって同型船で船主が同じだとしても「北前」を通らずに太平洋側を回って大阪に来る船は北前船と呼ばない。実際に太平洋側を回ってくる船主もあった。
それが銚子で高瀬舟に荷物を移し替えて利根運河を通って江戸まで運んだのではないかと・・・。

 北前船はやがて鉄道と電報の発達によって明治中期に廃れていきますが、様々な文化を残したり、支那で流行っている風土病に効くとされる昆布を薩摩藩へ運び(主に富山の船)それを琉球を通じて支那へ売った薩摩藩はその資金を元についには倒幕、明治維新へとつながっていきます。北前船は世界三大海運のひとつ日本郵船を生み出すきっかけになっていきます。
 北前船が廃れた原因は鉄道と電報といわれていますが、北海道の開拓が進み、米が生産されるようになった事も大きな要因であると考察しています。そして北海道の開拓の推進力の一つが当時高かった米の生産であったと思います。

で、何がいいたかったのかって・・・実際には北前船とは呼べませんがそれらと利根川航路のつながりの発見が面白かったということです・・・。

実際に北前船のふるさと加賀橋立に出かけています。
リンクは古い写真日記。

2 件のコメント:

  1. roadrunnerさん毎度ですぅ♪
    私河川事務所前(屋台)に合計1時間ほど居たのですが(苦笑)会えませんでしたね。

    利根運河史は30年前の当初の卒論のテーマだったので(結局は都内下町の神社史で出しちゃったけど^^;)懐かしく拝読しました。

    28日(土)のうんがいい朝一では、ボンベイカレーを食べる予定です。もしご都合がつけば朝9時くらいに一緒に朝ボンベイしますか?(笑)

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  2. お誘いありがとうございます。
    のどかな風景の中での朝ボンベイ、優雅ですね。
    是非、ご一緒させてください。

    私が河川事務所に訪れたのは12時過ぎ頃でした。
    まもなく、うんがいいも店じまいしておりました。

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